■地震への挑戦:耐震・免震・制震構造の歴史 -その1-

―海外及び日本に見る免震構造の発展史―

 「地震の被害を最小限にくい止めたい」これは地震多発地帯に住む人々にとって有史以来の大問題でした。
阪神・淡路大震災以降注目を集めている免震構造・制震構造も、その歴史を辿ると耐震構法と時を同じくして発展してきたことが分かります。

サンフランシスコ大地震から生まれた耐震設計法

地震に対する人間の挑戦は、後漢時代(136年)既に張衡(チャンハン)という人が地震計を作っていたという話まで遡ることが出来ます。しかし、近代の耐震構造発展の契機となったのは、やはり1906年のサンフランシスコ大地震(M8.3)です。日本から大森房吉(地震学)佐野利器(建築構造)両博士が現地調査をし、佐野はラーメン式鉄骨造と鉄筋コンクリート造が耐震的に優れているとを報告。1915年に家屋耐震構造論を発表し、その中で耐震設計方法として「震度法」を提案しました。その後1923年の関東大震災(M7.9)を契機とし、翌年「市街地建築物法に水平震度 0.1」が取り入れられ世界初の耐震設計法規が誕生しました。

タルク・玉石で建物を地盤と絶縁した免震設計法

建物と地盤を切り離す発想は古くからあったようです。カリフォルニア大学のケリー教授は、1909年イギリスの医師カランタリエントが提案した「建物の下にタルクという石を敷き地盤から建物を絶縁する方法」(右上図)が世界最初の免震構造の提案としています。
一方ニューヨーク州立大学のバックル教授は、ドイツ人のヤコブ・ベクトールドが「地面に穴を掘り玉石を入れその上に建物を建てる方法」の提案を、サンフランシスコ大地震のわずか1月後(1906年 5月)に米国へ特許出願しているのを発見しました。

丸太を敷き並べた免震構法

日本では1891の濃尾地震(M8.4)の半年程前に、丸太を二方向に何段も敷き並べ、その上に建物を建てる「地震ノ際大震動ヲ受ケザル構造」と題した河合浩蔵の演説速記録が大橋雄二(建設省建築研究所)によって発見されています。
ところがカランタリエントが友人に宛てた手紙には「自分の発明は25年前(1884年頃)に提案された日本の免震構造よりも良いものだ」と書いてあり、日本には河合の提案以前すでに免震構造があったということになります。どの様な免震構造か長い間不明でしたが、それを解明する手がかりを宮崎光生(ダイナミックデザイン)が発見しました。

丸太の前にあったベアリング構法

明治政府は二千人とも五千人とも言われる「お雇い外国人」を欧米から招聘しました。その中に元鉱山技師で日本の地震学の父と言われるジョン・ミルンがいます。彼は世界初の地震学会を創設したり、地震計の製作や過去の記録・現地調査など地震に関する広範な調査研究をする一方で、少なくとも2つの免震建物を建てていたようです。木造建築の四隅の柱の下に鋳鉄の球をはさむ方法で、地震の遅い動きは伝わったものの、急激な動きは伝わらなかったということです。彼の滞日期間が1876年から94年であることや、沢山の論文・報告を英国をはじめヨーロッパに送っていること等から、英国まで知られていた日本の免震構造がミルンのものであることはほぼ間違いないと思われます。

時代をもっと遡ると、彦根城に「地震の間」と言うのがあったそうです。また、五重塔は心柱と多くの木組みで構成された一種の制震構造物と言えるのかも知れません。