■地震への挑戦:耐震・免震・制震構造の歴史 -その2-

―海外及び日本に見る免震構造の発展史 その2―

 サンフランシスコ大地震の後提案され始めた免震構造は、関東大震災を契機としてさまざまな方式が続々と提案されるようになり、実際に建設されたものもあります。今回は第二次世界大戦以前の免震構造への挑戦を紹介します。

軟弱地層をクッションとした旧帝国ホテルの免震構造

米国の天才建築家 Frank Loyd Wrightが東京の旧帝国ホテルを設計していた時(1921年)、敷地の厚さ 8フィートの地表層の下に60から70フィートの軟弱地層があることが判明。 "Why not float the building!"と彼はこの軟弱地層を地震の衝撃を吸収してくれる天の恵みと考え、周囲の反対を押し切って浮き構造のような杭基礎を設計したと云われています。はからずも建物竣工の2年後(1923年)関東大地震に遭遇しますが、建物はみごとこの地震を生き延びたのでした。

サンフランシスコ大地震以後の米国の免震構造

ヤコブベクトールドやカランタリエントの免震構造の提案後、米国では1929年 Martel が "Flexble First Story"を提案。建物の1階部分を他の部分よりも柔らかく作り、そこで地震の衝撃力を和らげようという概念で、その後 Green(1935)、Jacobsen(1938)の研究を経て、これに塑性化によるエネルギー吸収の概念を導入した "The Soft first Story Method"(1969,Fintel & Kahn) へと発展。この方式を採用した初代 Olive View 病院がロサンゼルス郊外に建設されます。完成まもないこの病院は1971年の San Fernando 地震で大被害を受けます。現在では、鉄筋コンクリートのように脆い材料で作った柱の1層だけで建物全体の入力エネルギーを吸収することは不可能であると解釈されており、わが国の新耐震設計法でもピロティ形式は避けることが要求されるようになりました。

関東大震災後における免震構造への挑戦

14万人もの死者を出した関東大震災を契機として、「地震災害から逃れたい」と多くの免震構造が続々と提案されるようになりました。震災翌年には鬼頭健三郎のボールベアリング案や山下興家のバネ付き柱の提案、中村太郎のピン柱+ポンプ式ダンパー(1927年)、岡隆一(1928年)や真島健三郎(1934年)の提案などがあります。昭和初期にかけての1930年前後は、佐野・武藤対真島による、剛構造がよいか柔構造がよいかという有名な「柔剛論争」があった時代でもあります。
柔構造を主張した真島は「耐震家屋構造」の中で米国の Martel が提案した Flexible First Story にフェールセーフの役割を担う平屋の建物を組み合わせた免震構造を提案しており、国際的な情報交流は当時もかなり盛んであったように思われます。
関東大震災を契機として提案された数々の免震構造の中で、実際に実現されたものは1933年の岡隆一の提案によるものだけでした。

岡隆一による免震柱

岡隆一の「免震基礎」の提案は、底部が大きな球面になった免震柱を設け、その上端を球形状のピン継ぎ手とするもので、地震時にはこの免震柱が回転することにより建物に水平変位を許す機構となっています。また、その回転部分の摩擦により減衰(エネルギー吸収)機能を兼ね備えるものとなっています。この機構を適用して1934年に建設された不動貯金銀行(※)姫路支店と下関支店は、現存する世界初の実用免震建物であるといわれています。
注※)現あさひ銀行・旧協和銀行・当時不動銀行60年以上を経過した現在もこの建物は使用されていますが、姫路支店の免震機構は既にその機能を喪失しているようです。しかし、この免震柱の前に立つ時、免震への熱い想いを実際の構造物として実現させた先人の情熱とロマンが今もひしひしと私たちに伝わって来るのです。